【名塩】国鉄(JR)西宮名塩駅 開業(昭和61年11月1日)
更新日:2022年1月25日
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「新駅を名塩に」 福知山線複線電化
国鉄福知山線の前身である阪鶴鉄道は、明治32年1月25日有馬口(現・生瀬)-三田間を開通させました。武庫川渓谷を走る列車からの眺めは、春は桜、秋は紅葉と乗客の目を楽しませていました。
戦後の急速な経済復興や高度成長により、工場や会社は大都市に集中。そこへ通勤する人々が生活環境のよい周辺地域に居住するようになり、住宅がさかんに建設されました。昭和30年代半ばから名塩周辺も阪神都市圏のベッドタウンとして注目され、住宅建設会社の命名した「名塩山荘」「名塩ガーデン」などの住宅地が次々と建設されました。
住宅開発が進む中、年々増える通勤客に対応するため、国鉄福知山線複線電化工事の計画が持ち上がりました。福知山線区間で生瀬-道場間12.2kmは既存の路線での工事が難しく、別ルートで複線化を進めることが決定しました。新ルートが名塩地区を通ることから地元中心に「新駅の設置を」との声が強まりました。
工事すすむ西宮名塩駅
昭和50年代に入ると工事全面着手の形が整い、宝塚ー篠山口間は昭和54年12月のトンネル工事起工式を皮切りに次々と工事が進められました。市は起工式前年の昭和53年、国鉄に新駅設置の要望書を提出。57年に国鉄は新駅設置を承認しました。
新ルートは生瀬駅西の太多田川、武庫川合流点付近から名塩川までが第一名塩トンネル、つづいて第二名塩トンネルとなり、東山台地、読売ゴルフクラブの直下を通って、現在の武田尾駅近くまでほぼ一直線となります。
第一・第二名塩トンネル間の開口部に名塩川の上をまたぐように西宮名塩駅が誕生しました。
昭和61年11月1日、待望の国鉄西宮名塩駅開業です。塩瀬中学校ブラスバンド部員のファンファーレの中、八木市長らがテープカット、同中生3人がくすだまを割ったあと、市長が一日駅長になり、午前11時59分初の大阪行き上り電車を使って発車式も行われました。名塩各町がだんじり8台を繰り出したのをはじめ、交響曲「名塩」の披露や歌謡大会なども開かれ、にぎやかなセレモニーとなりました。
紙漉きの里 名塩
名塩は江戸時代には「名塩千軒」と呼ばれるほど紙漉きがさかんで、泥土を混ぜる技法によりシミができにくく変色しない名塩紙は藩札にも使われました。明治以降は洋紙の進出により和紙業界は大打撃を受けます。しかし、名塩では襖用の間似合紙を中心に漉いていたこともあり年々増える住宅での需要があったこと、金箔銀箔を製造する上で不可欠な箔打紙をつくっていたことから大正年間にも生産高が増加する盛況を続けていたようです。現在も数は少ないながら名塩の伝統文化は受け継がれ、昭和58年には兵庫県指定無形文化財、平成14年には国指定重要無形文化財となりました。
東山は名塩中心部の東に位置する台地でした。昭和40年頃までは10軒足らずの集落と棚田が続く美しい里山でした。
東山の棚田がナシオンに
国鉄福知山線複線電化に伴い、その静かな東山に一大ニュータウンが開発されます。住宅・都市整備公団(現・都市再生機構)が3,000戸12,000人の新住宅都市の建設を進めました。
ニュータウンの街並みはかつてここに広がっていた棚田の形状を活かした、南斜面中心の階段状になっています。
JR西宮名塩駅と高低差約60mのニュータウンを結ぶのが遠くからでも目をひく145mの斜行エレベーターです。青空と四季折々に変化する山並みを眺めながら移動できる斜行エレベーターは、名塩ニュータウンのランドマークとなっています。斜面に並ぶマンション群と斜行エレベーターの景色が建設省(現・国土交通省)の「都市景観100選」で大賞に選ばれたこともある、美しい街並みが続きます。
参考文献
『名塩史』
『宮っ子』
『市政ニュース昭和61年11月10日』
『西宮名塩ニュータウン パンフレット』
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