【船坂】寒天 白く輝く
更新日:2022年1月25日
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白く輝く寒天干場
山口町船坂は明治中ごろから平成10年まで、農閑期の主要生産物として、「細寒天」と呼ばれる高級な寒天を製造していました。段々畑の一面にヨシズの上の寒天が白いじゅうたんを敷き詰めたように光るさまは、西宮北部の冬の風物詩として記憶されています。
船坂
船坂地区は、東側を太多田川が東西に、中央部に船坂川が南北に流れ、田畑が広がる農業集落です。平成3年の盤滝トンネルの開通によって交通の便がよくなったものの、今でものどかな田園風景を残しています。
船坂は山間部の海もない場所にもかかわらず“船”という文字が使われ、不思議に思うこともあるでしょう。この由来について、「摂津名所図会」には仁西上人が有馬温泉を復興した際、湯船を造り、それ以来「船坂」という呼称になったと書かれています。
北摂地域では、江戸時代から寒天の製造は行われていましたが、西宮市域の寒天製造は明治初期に越木岩・鷲林寺地区からはじまり、船坂では明治18年からはじまり、船坂川両岸約3キロメートルにわたって寒天製造工場がありました。
船坂は標高が高く冬季の夜間温度が零下5度~10度で乾燥がち、水が豊富という点で寒天作りには最適の条件を備えていました。また、原料の天草の搬入において、盤滝は馬の背に積んで運搬しましたが、大正4年に有馬軽便鉄道が開通し、有馬から船坂へ運ぶことができ、便利になったことも発展の要因でした。
最盛期は昭和10年ごろ。14~15軒で約300人もの人が製造に携わり、国内だけでなくヨーロッパへも輸出していました。
職人は氷上郡、綾部・福知山出身が多く、長であるリーダーは頭領といいました。頭領は、下で働く職人も一緒に連れて船坂へやって来ます。そしてその冬の寒天の生産量に応じて、準備、原料の仕入れ、天場〈寒天小屋〉作り、実際の寒天作りから、荷造り発送までのすべてを仕切ります。
製造工程
原料・天草
関東・東海・近畿・四国・九州など、日本各地で生産される天草ですが、韓国・アメリカなどからも仕入れることがあったようです。寒天は一種類の天草のみで作られるのではなく、各地の天草を混合し、またこれに平草・エゴ草・オゴ草などが配合されます。
晒場 洗う・晒す
天草との割合によって粘り・ツヤが違ってくるため、各製造家それぞれに秘訣があったようです。また、配合に始まり、このあとの撹拌・煮・蒸らしの作業は経験と熟練が必要とされ、すべて頭領の裁量で行われます。
作業はまず水を張った水槽に配合された天草・エゴ草・オゴ草を漬けることからはじめます。かつては、洗った海草を天日で乾かす作業〈晒し〉を2ヶ月ほど2回行っていましたが、昭和末期には機械化により簡便になったようです。
水槽で撹拌し、やわらかくなった原藻は、柔捻機という機械でさらに搗き洗い(ツキアライ)されます。
煮つめてしぼる
十分に洗い、水切りした天草を、熱湯の入った大釜で一昼夜煮つめます。
火を止めて蒸らし、どろどろになった液に差水と中和剤(炭酸ソーダ・石灰など)を入れます。2時間後、この溶液をしぼり袋に汲み出します。
しぼり袋をワクに積み、その上を「オシボウ」で押さえ、この棒に石(カケイシ)をぶら下げ、その重みでろ過(シボリ)され溶液が「台槽(だいぶね)」という大槽に抽出させます。これに漂白剤が添加され寒天溶液となります。
カエコシ・タチ
寒天溶液は「小槽(こぶね)」という木箱に流し込み(カエコシ)、10時間ほどおくとこんにゃく状に固まります。これをマグワという裁断機で6センチ角長さ40センチの棒状に成型していきます。この作業を「タチ」といいます。
冬枯れの田んぼにヨシズをのせた棚がぎっしりと並びます。寒天を干す「棚場」です。小槽の寒天を台車で運び出します(カタギダシ)。
筒引き
こんにゃく状のものを金網を張ったツツ(天筒)に入れ、ところてんのように突き出します。「筒引き」という作業です。押し出すのではなく天筒を引くのがコツです。
“シュッ”と引く、“スポン”と入れる。天筒に寒天を入れる〈ツツ入レ〉人と、寒天を突き出す〈ツツヒキ〉人の二人一組の作業はとてもリズミカルです。16mmフィルムに残る映像でその光景を見ることができます。
成形
クリーム色のグニャグニャしたものが、夜の寒気に凍り、昼間に解ける、これを約二週間ほど繰り返します。
寒すぎても暖かすぎても、また雨も製品に大きく影響します。天候の急激な温度変化で部分的に凍ると、仕上がりが真っ白にならないため、一晩中寒暖計を見張ったといいます。
白く輝く 寒天干場
干場
凍った寒天が日中温度で上のほうから水分が蒸発します。水分が下に下がるとともに赤い色素が下のほうに抜けます。
さらに、天日の紫外線を受けて上のほうから色素が晒されていき、真っ白い寒天が出来上がります。
寒天あげ
製品は一等・二等・三等に区別され、干しあげた品をそのまま大包みにしたもの、一握りずつ紐で束ねたものとに荷造りし、出荷されました。
150年の歴史に幕
明治31年に福知山線生瀬駅(湯治有馬口駅)が開設され、一般の人も有馬温泉を訪れるようになり、生瀬駅から人力車に乗って有馬へと向かいます。中継地点である船坂には茶店ができ、大阪からの湯治客が立ち寄ったことが縁となって蔬菜(そさい)栽培が盛んになりました。
蔬菜栽培に従事する人が増え、また機械もの(化学寒天)に押されたのと、早朝からの厳しい作業に後継が付いていけないなど、経済事情や人材確保の難しさもあり、徐々にその数を減じていきます。
また、船坂川の一部はダムとなり、湖底に沈んだ寒天小屋もありました。平成10年、たった一軒残っていた工場も廃業し、150年の歴史に幕を閉じます。
参考文献
「変容する西宮北部ー地理・歴史学分野からの考察」 西宮市立西宮東高等学校地歴部/昭和59年7月20日
「西宮の地場産業 西宮市船坂地域の寒天産業の地理的考察 1971~1972」 間森誉司/昭和57年4月1日
「西宮市実態調査報告書」 西宮市役所/昭和38年3月30日
「ふなさか雑記」 岩橋慶造/昭和59年10月
「山口村誌」 山口村誌編纂委員会/昭和48年3月24日
「グラフにしのみや 昭和60年 市制60周年記念号」 西宮市広報課/昭和60年4月
「摂津名所図会」寛政10年
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