【武庫川】武庫川 水と親しむ
更新日:2022年1月25日
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武庫川
武庫川は水源を篠山市に発し、三田盆地を通り、神戸市北部をかすめ、宝塚、西宮、伊丹、尼崎の間をぬって大阪湾にそそがれます。日ごろ少ない水量が、大雨になると急激に増え、岩、砂利、砂をすさまじい勢いで下流へ運び、阪神間の平野部を形成してきました。土石流や浸水はあるものの、農業用水として田畑を潤してもきました。
降雨が直ちに洪水・土石流となって災害となる原因は、地質・地形が崩壊しやすい粗粒の花崗岩で構成されていることに由来し、加えて豊臣時代の山林乱伐により六甲山地の荒廃が始まったと伝えられています。
明治に入ってからは鉄道・電車が開通し、山麓部まで住宅地が開け、近代都市として急速に発展していきます。都市の膨張にもかかわらず、財政上山地の荒廃に手をこまねいていたことが、風水害による被害をさらに深刻化させました。
江戸時代も治水工事は行われていましたが洪水は絶えず、度重なる災害は武庫川流域市町村の長年の懸案課題でした。上流の砂防工事は明治28年から県によって着手され、明治30年に公布された砂防法で開墾・乱伐を禁止、土石、樹根の採掘は知事の許可制とし、また、明治32年度からは砂防工事に対し国庫補助も受けられるようになり、水源山地が保護されます。
下流区域では氾濫を食い止めるための改修工事が計画されます。工事は大正9年8月に開始し、大正12年3月に完了します。流路の屈曲を矯正し、川幅を拡げ、河床を掘削、堤防を新設または増築し、分流する河川(枝川・申川)を廃川として本流のみとする治水を根本的に改良する事業でした。
改修工事の結果は洪水氾濫の解決だけでなく、水利も改善され、廃川による広大な敷地は払い下げを受けた阪神電鉄によって住宅地、甲子園球場をはじめとするスポーツセンターとして名声を高めました。
松並木
武庫川堤防は、江戸時代以来の古木と明治時代の植樹運動で増やし、堤防は美しい松並木が切れ目なくつづき、緑で包まれていたといいます。戦時中、燃料不足を補うため松根が盛んに採られ、枯れてしまったものも多くありました。
戦後、何とか残った松も排気ガスで枯死したり、高くて幹の太い松は台風などで根元が揺さぶられたため堤防の強度を弱めてしまい、また倒れて流された松が橋や堤防の損壊を招くなど、風致として尊重される面と防災上の危険をあわせもつことになり、美しい松並木の保持は簡単ではありませんでした。
堤防は何度も補強され、手を加えることによって徐々に災害に見舞われることが少なくなりました。昭和35年、西宮市は河川敷きに公園をつくり、ブランコなどの遊具や散歩道をつくり、また昭和41年には河川敷を公園化する国の方針に基いて、芝生広場や野球広場を設け都市公園として整備し、昭和50年にはサイクリングロードを完成させ、市民の憩いの場として定着してきました。
遊泳と釣り
武庫川の楽しみはやはり水遊びにあるでしょう。生瀬地区には昭和30年代キャンプ場があり大いににぎわいました。阪神電鉄武庫川駅に降り立つと潮の香りがします。駅付近は武庫川水泳場として知られ、多くの人が遊泳に訪れていました。
一年中にぎわったのは、武庫川駅から河口まで1キロ余で行われた釣りです。昭和40年ごろ、阪神間で唯一、釣りができる川とあって、日曜ともなるとマイカーを連ねた家族連れがどっと繰り出し、堤防上は人とサオで埋まり、多くの小舟が行き交いました。釣果は平均50尾、満ち潮にでも当たると100尾は望めるといわれ、人気に拍車がかかりました。
しかし、昭和40年、香櫨園や甲子園の海水浴場が閉鎖になるのと同じように、武庫川も水質汚染が進み始め、昭和41年、遊泳は禁止されました。河口のハゼ釣りも危ぶまれましたが、昭和47、8年ごろをピークに水質が改善され、現在は鮎も遡上するといいます。
釣り、水遊び、サイクリング、ピクニックなど人々の憩いの場として親しまれる武庫川。いつまでも大切に守りつないでいきたいものです。
参考文献
『朝日新聞』昭和41年8月25日 昭和41年8月27日 昭和41年9月1日
『西宮市史第1巻』
『西宮市史第2巻』
『西宮市史第3巻』
『西宮市政ニュース』第372号 第377号
『神戸新聞』昭和41年9月8日
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