戦争体験談「下校時、戦闘機から機銃掃射に遭う」
更新日:2022年2月21日
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下校時、戦闘機から機銃掃射に遭う
棚橋 正夫(85歳)
1943年(昭和18年)京都市下京区に住んでいた。大東亜戦争が激しくなり、東京、横浜、名古屋、神戸、大阪の大都市圏がB29の空爆を受け壊滅的な被害を受けた。
祖父が、次は京都かも知れないと推測し、祖父母が出向いて探してきた安全と思われていた静岡県有度村の農家の離れに家族全員(7人)縁故疎開した。
私は小学2年生になった。戦争で物資が不足していた。ノートや鉛筆も買えなかった。ノートは新聞全紙を四ツ折りにし小刀で8枚(ほぼA四大)に切って、こよりで綴りノート代わりにした。鉛筆もなく学校の机上には常時習字の硯石を置き筆で書き取りをした。
学校の一週間の時間割は、警戒警報、空襲警報によって、まともな授業は受けられなかった。警報が鳴る都度、授業が中断され生徒全員帰宅させられた。そのため、時間割が不規則となり曜日通りの授業は出来なかった。月曜日に金曜日の時間割で授業があったり、ひどいときには、一週間も遅れ土曜日に月曜日の時間割で授業が行われた。
1944年(昭和19年)後半になると、毎日のように敵機襲来で警報が頻繁に鳴った。学校は休校が多くなり、戦争の激しさが増してきていることを実感していた。アメリカの航空母艦が日本本土に接近し戦闘機(グラマン)が日本上空に簡単に飛来するようになった。当時の戦闘機はプロペラ機で機関銃による攻撃(機銃掃射と呼んだ)が多発していた。初めは、軍事工場や基地を重点に襲撃していたが、そのうち、情け容赦なく学校や病院も狙うようになっていった。
学校の先生から帰宅途中の避難の仕方が教えられた。
「戦闘機の攻撃で亡くなる人が多くなってきました。道路を歩くときは、被害を少なくするため道路の端を一列に並んで前の人と間隔をおいて歩きなさい。固まって歩かないこと。もし、飛行機が飛んできたら道路上にいると狙われるので道路の傾斜面か茶畑の中に飛び込みなさい。そしてうつ伏せになって体を動かさず死んだふりをしなさい。動くと狙われます。じっとしていることです」
ある日の午後。授業中に警戒警報のサイレンが鳴った。授業は直ちに中断された。帰宅指示が出された。学校に頑丈な防空壕があったが人数が限られていて学校から遠い生徒だけが利用できた。
生徒たちは、日頃から訓練されていたので各グループに分かれて帰途についた。学校から自宅に比較的近い私たちは30人ばかりいた。
帰り道は、遮る物が何もない茶畑と並行した農道(幅3メートル程)を利用するのが一番近道だった。上級生のリーダーが、前の人と後ろの人の間隔を1メートル以上開けさせて縦1列に並ばせて小走りで自宅に向かうよう指示をした。
私は先頭ブロックの前方にいた。みんな無言で小走りで走っていた。
そのとき、右後方上空から飛行機の爆音が聞こえた。後ろと中央にいたリーダーが、
「敵機が来たぞ。みんな道路の斜面に伏せろ!動くなよ!」
と大声で叫んだ。
訓練されていたので、みんな素早く道路の左右の斜面にダイビングをした。
私は、道路に向かって左側の斜面に飛び込んだ。うつ伏せになって息を殺してじっとしていた。
飛行機の爆音が次第に大きくなり戦闘機1機が超低空飛行で近づいてきた。
突然。「ダダダダダダァ~ン」と無差別に乱射する機関銃の連射音が聞こえた。道路には砂煙が、もうもうと舞い上がった。パラパラと小石が無数に飛んできた。頭から砂を被った。反対側の斜面で「ギャ~」とか「わァ~」とかいう悲鳴が聞こえた。何が起こったのか分からない。じっとしていたが、こわごわ首をかしげ空を見た。
戦闘機は、機関銃を乱射していた。ほんの一瞬だったが、ヘルメットを被った操縦士の米兵の顔がはっきりと見えた。そして爆音と共に上空へ飛び去っていった。また、来るかもしれないと思うと怖くて声も出せなかった。泣いてる子もいた。再び来るかもしれない。
上級生が「まだ動くな。もう少し待て」と何度も叫んでいた。息を殺してじっとしていたが生きた心地はしなかった。幸いなことに戦闘機は旋回する事もなく南の空へ消えていった。リーダーの上級生が「もう来ないだろう。大丈夫のようだ。」と言った。みんな立ち上がった。後列に居た四~五人は、戦闘機が向かってくる斜面に避難したので、まともに銃撃を受けた。血だらけになってうつ伏せに斜面に横たわっていた。怖かった。
上級生たちが、それぞれの名前を呼んでいたが応答はなかった。即死だと思う。
私たちは、反対斜面に伏せたから助かった。運命の分かれ道だった。リーダーの上級生が、「撃たれた人がいる。俺たちが学校と連絡をとる。ここは俺たちに任せろ。あとは、みんな早く家に帰れ!」と大声で帰るよう指示をした。私を含め生き残った生徒たちは友達の遺体を見るのも怖くて震え、みんな後ろを振り向かず一目散に必死に走りそれぞれの自宅へ向かった。翌日知った。30人のうち5人が尊い犠牲となった。学校は翌日休校となった。そのとき、何の罪もない幼い子供たちを容赦なく攻撃したアメリカを強く憎んだ。
令和4年2月8日 寄稿