戦争体験談「一寸昔の話」
更新日:2023年8月16日
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一寸昔の話
菟原 満(88歳)
こんなに長く生きられるとは思っていなかった。自分の歳も分からない小さな頃は、家から少し離れたところを走る、電車が好きで、防護柵に手をかけて、見ていました。いつもの様に電車を見ていると、小便がしたくなったので、防護柵の根元にかけたつもりだったが、背中が冷たくなったので目が醒めた。夢を見て布団の中でもれたらしい。母に見つかったが、何度も有った事なので少し恐い顔で笑っていました。
川辺郡川面町で私が生まれた、と親に教えられました。東の方の橋の近くに、映画館が有りました。時代劇の好きな姉にお供して観に行きました。
映画の最中に、大きな音がしたので驚いた事がありました。後で分かったのですが、大阪の方の工場で爆発が有ったと聞きました。
父の仕事の都合で四歳の頃だと思いますが姫路の、お城の北側に、引っ越ししました。お城の南と北には、兵隊さんの兵舎が有りました。
お城の東側の広い道を、鉄砲をかついだ兵隊さんが、ラッパ手を先頭に、何十人も隊列を組んで行進する姿は、子供でも勇ましいと感じました。自分も、大きくなったら兵隊さんになると決めました。
昭和16年の春、お城の北側にある小学校に入学しました。学校の生徒が、兵隊さんの宿舎に慰問に行く事も有りました。
私は歌が好きなので、唱歌や軍歌を歌いました。
家の東の方に市川という大きな川が流れていました。友達と一緒に遊びに行った時、川原の石の苔に足を滑らせて、溺れて流されました。幸い、近くを泳いで居た大人に助けてもらったことが有りました。
父の使いで、煙草屋さんに煙草を買いに行くことがありました。戦争が始まっていたので煙草も少し高くなっていたと思います。
当時、流行していた歌が、紀元二千六百年の歌の替え歌で♪キンシアガッテ十五銭、ハエアルヒカリ三十銭、ソレヨリタカイホウヨクハニガクテカラクテ五十銭、アアイチオクノカネガヘル、こんな歌も流行っていました。
食料品も少なくなって、全部配給制になりました。衣類も店屋で買えなくなって、次第に生活が苦しくなって来ました。学校の運動場には、ルーズベルトとチャーチルの人形を立てて、木製の銃剣で、突き刺す練習をしました。
四年生になった頃に、手旗信号と、モールス信号を教えられました。イロハ四十八文字を全部覚えたのですが、今での最後の方八文字ほどが思い出せません。
1から0の数字は、
(1)ヒコーソージュウホー ・----
(2)フタジューメーター ・・---
(3)ミツキユーコー ・・・--
(4)ヨツヤクチョー ・・・・-
(5)ゴモクメシ ・・・・・
(6)ローソクタテ -・・・・
(7)ナーモーナナツ --・・・
(8)ヤーヤーモーキタ ---・・
(9)クーチューコークーキ ----・
(0)レート―ホーリョーコ― -----
連日の様に空襲警報のサイレンが鳴る様になりました。
大人の話では、戦争の旗色がよくない様な話、20年7月3日の夜、サイレンが鳴ったので、みんな表の防空壕に逃げ込みました。暗くて土がジメジメしていて気持ちが悪かった。少し頭を出して、外を見ると、夜空一面にB29の機体が、何十機も隊を組んで飛んで来ました。探照灯に浮かぶ白い機体は、不気味でした。
その内、大きな音と同時に、爆弾や焼夷弾が、ザーと、夕立の様に落ちて来ました。隣保長さんが、「防空壕が崩れるので、みんな外に出て逃げろ」と叫びました。私は、母と二人で、方向も分からないまま走りました。途中で母とはぐれて一人になりました。心細くなりました。いくら走っても飛行機の方が速いと分かって、走るのを止めました。気が付くと、小さな川の土手に座っていました。子供心にも、死ぬときは死ぬ、と諦めていました。
東の空が明るくなって来たので、自分の家の有った方向へ、戻ることにしました。飛行機も、いませんでした。家は焼けて無くなっているかも分かりません…。
家が有りました。家が有りました。近くはみんな焼けているのに家が有りました。その内、ばらばらに逃げた家族も帰って来ました。
今、ここで、これを書ている自分が居るのが不思議です。人が人を殺すことは、神も仏も赦しません。全人類が平和に暮す事を考えるべきです。
終
令和5年8月15日寄稿