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戦争体験談「今津で暮らした日々と空襲」

更新日:2021年9月21日

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今津で暮らした日々と空襲


吉川 礼子(93歳)


 
 私、吉川礼子(よしかわ・あやこ)は昭和3年7月2日、西宮市今津で、6人兄弟(男2人、女4人)の5番目として生まれました。
 当時、年号が大正から昭和に変わったばかりで、昭和天皇の儀礼・儀式が多かったので「礼」という漢字をつける親が多かったそうです。誕生日が、母校の今津小学校の創立記念日と同じ日なのが、小さな誇りです。
 私が産まれ育った家は、おじいちゃんも、そのおじいちゃんも受け継いできた造り酒屋でした。でしたというのは、戦争中に国から、「近所の酒屋が集まって会社にしなさい」といわれ、そう変わっていったからです。
 
 私が小さい頃の思い出は、秋になると職人さんが来て、お酒造りが始まることです。といっても、酒蔵の入り口には「女人禁制」の札がかかっており、堂々とは入れませんでした。家ではお正月、ひな祭り、節句、お盆などの行事はもちろん、毎月15日にはお赤飯を炊いて伝統行事を守っていました。いつもお膳だったので、洋風な料理は作られませんでしたが、ミシンやガス灯籠、ガスコンロなどの当時の最新家電は早くから使っていたと聞きました。
 昭和8年に今津町は、西宮市に合併。昭和9年、幼稚園の時に(全国的にも大きな死者を出した)室戸台風がやってきました。私の家も大きなえんとつが折れましたが、家族にケガはありませんでした。阪神間では学校の校舎も壊れ、亡くなった人も多かったです。その翌日、幼稚園に行くと「ほとんどの園児はお休みしましたが、〇〇ちゃんと△△ちゃんは出席でした」と園長先生が褒めていました。当時は、欠席してはいけないという教育が叩き込まれていたのです。小学生時代は大きな病気はしませんでしたが、一年間休まず皆勤賞をもらうことは、なかなかできませんでした。
 
 小学校の頃は、五一五事件、二二六事件について聞いた記憶はありますが、あまり関心がありませんでした。小学校3年生の時、盧溝橋事件がおき、友達のお父さんが戦地に行ってからは「関心がない」ではすまされなくなりました。受験教育に熱心だった今津小学校も戦争をするための教育に代わり、毎日大きな声で読み上げました。一部を紹介します。
 「大日本は神の国であります。神霊は常に日本をお護りになって下さいます。」
 「何事をするにも体当たりで向かって真剣でなければなりません。私たちは大日本を背負って立つのであります。」
 当時は、血が躍るほど興奮したのを覚えています。また、作文の時間には兵隊さんに励ましのお便りを書きました。音楽の時間も、長い軍歌の歌詞を覚えました。童謡も「僕は軍人大好きよ、今に大きくなったなら、勲章下げて剣下げて、お馬に乗ってハイドウドウ」と歌いました。男子は大将になる事が夢でした。今津小学校の先生が「大将といわず伍長で戦死すと子らは語らう胸せまりきぬ(大将にはなれなくても最下級の下士官である伍長になって戦地で死にますと子どもたちが話す姿は胸にせまるものがあります)」と詩にしたような事が現実となっていきました。
 しかし子どもたち自身は「よく学びよく遊び」という言葉どおり、休み時間や放課後は、みんなで鉄棒、ゴム飛び、なわ跳び、鬼ごっこ、缶蹴りをして遊びました。雨の日はお手玉と読書です。
 小学4、5年生の時は、神社の掃除もしていました。冬の朝は寒く、かじかんだ手に息をかけて、神社の中をきれいにしました。終わるころには身体も温まって気持ちが良いです。学校の方針で、低学年は戦争の勝利を願ったおまいり、高学年は早朝の寒空の中、稽古がありました。
 年を追うたび、英霊(戦地で亡くなる兵隊さん)が多くなりました。その時には授業は止めて、全校生が道の両側に整列して英霊を出迎えました。炎天下に長時間待つこともありました。葬送行進曲のラッパの音は物悲しいけれど、おかしくもあり、誰かがこらえ切れずにふきだすと、みんながふきだしてしまいました。帰校してから、先生に「不謹慎」だと叱られました。
 
 西宮高等女学校では運動が盛んで、陸上の大会に出場するほか六甲山登山も年中行事でした。年々、食糧不足となり、道端やいたるところで野菜が栽培されるようになりました。
 サツマイモや麦を栽培するため、遠い山の麓までクワを担いで何度も往復しました。五年制で入学しましたが、一年でも早く卒業させて戦争のための働き手にするため、私たちの学年から四年制に改められました。手芸の時間も刺繍は贅沢となり、防空頭巾や救急袋を縫いました。次第に学徒動員として、戦争に使う道具をつくる工場で働くようになりました。戦争が激しくなり、「はやく工場に行って、たくさん弾丸を作って戦地に送りたい」と焦りました。そんな時に教頭先生からかけられた、「ひと月でも一日でも長く授業を受けた方が幸せだよ」という言葉はいまだに忘れられません。
 当時では珍しいのですが、神戸女学院専門学校家政科に合格したので進学しました。この年の3月は東京、大阪、名古屋で空襲があり、本土決戦が叫ばれていました。
 
 昭和20年8月5日、西宮大空襲で先祖伝来の酒蔵のほか今津地域の建物がすべて焼失しました。酒蔵のアルコールや太い棟木のせいか、瞬く間に火が広まりました。目撃はしませんでしたが、川にとび込んだところに爆弾が直撃して、死んだ人も多かったそうです。火を消すためのバケツリレーを何度も訓練してきましたが、何も役には立ちませんでした。熱くて狭い道を、母と妹の3人で歩いていると父とめぐり合いました。3月に大阪で被災した義兄がリアカーを引いて探しに来てくれて、姉夫婦と武庫之荘へ居候することになりました。
 8月15日、朝から快晴でした。空襲後は黒い雨が降ったので、この日の青空は一層印象深かったのを覚えています。正午の終戦を告げる玉音放送に、もう10日終戦が早かったら…という声が町に溢れました。必死に戦ってきたことが報われることもなく、むなしさと腹立たしさ。そして、無条件降伏でこれから何が起きるのか不安の方が大きかったです。

令和3年8月11日 寄稿

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