戦争体験談「神戸大空襲」
更新日:2021年9月21日
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神戸大空襲
小島 久
(1)昭和20年3月17日
米機の来襲が度重なるにつれて、夜の灯火管制がだんだんに厳しく、一筋の光も外に洩らさないようにして息をひそめていました。そうした中、17日の夜半、ラジオが「敵の大編隊が紀伊水道を北上中!」と伝えるが早いか、海の方から空一杯にB29がやって来ました。私は今の新神戸駅南の生田町にいました。
敵は手始めに照明弾を落としますが、その明るさは生田川の東から西は北野町あたりまでまるで真昼のようです。次いで焼夷弾の雨が枝垂れ桜のように降り注ぎ、味方の探照灯や高射砲の曳光弾の光と交錯して、見とれるばかりの美しさです。
まずは布引から青谷あたりで火の手が上り、次いで小野浜の方も燃え出しました。「次は真中のこっちに来るぞ、逃げろ!」と大人達が叫ぶ中、私達家族4人は、布引の滝への登り口にある壕へと逃げました。姉と私はこの月の下旬に広島へと疎開しました。
(2)後日譚 白い屋上
昭和40年頃に神戸大学の先生からお聞きした話です。
戦争末期に前線に派遣されることになった元教え子の海軍航空士官が、大学に訪ねて来られたそうです。「先生、ちょっとついて来ていただきたいのですが」。そこで大学本部校舎の屋上に伴われて上ってみると、「ご覧下さい。白いコンクリートのままでしょう、上空からはまる見えなのです。」
当時目立つ建物の外壁は、夜間、敵機から見えにくくするために軍の方針ですべて黒く塗られていました。灯火管制といい、この白い屋上といい、いずれも専ら日本人に見せるため(戦意高揚)のものだったのでしょう。
(3)広島への疎開
1945年8月6日、国民学校5年生の私は、広島県佐伯郡高田村の高台に縁故疎開で神戸から来た子どもの内、男の子4人組を引き連れて立っていました。村は広島湾内の能美島にあり、広島市の南20km、東4kmには海軍兵学校、右前方2kmには巡洋艦「利根」の威容が見えます。
母の姉、ユキノ伯母の家には疎開組9人と家人が3人で、大人の男は伯母の長兄で病弱の伯父と中国大陸の戦争で左腕を失った従兄の新作さんだけでした。12人分の煮炊きと風呂の薪は4人組の木っ葉掻き(松の落葉と小枝拾い)にかかっていました。
島での食べ物は芋のつると、ゆがいたじゃがいもばかりで、神戸から来た時には、1.5度あった視力が敗戦後の10月に神戸に戻った時には左0.1度で右は0.03度のど近眼になっていました。
(4)脱走
確か7月のある日、4人組はつらさのあまり「やっとれん。もう逃げようで!」と4km北の村の遠縁の家に逃げて行きました。家の人は何も聞かずに歓待してくれました。蛸など山盛りの天婦羅に銀シャリと夢のようなごちそうを食べ、客布団でぐっすり寝ていた真夜中、「おい!起きんさい」と新作さんに叩き起こされました。寝呆けまなこで海沿いの道を追い立てられて帰る途中、山の中で沢山の灯りが動いています。「おうい!居ったぞ」村を挙げての山狩りでした。
翌朝、いつもの逃げ場所、前栽の松の枝にまたがって小さくなっていると、下からいつもは厳しい伯父と従兄の声が、「今度のことじゃああれらを叱れんのう、いたしい目にあわしとるで。」
以後、村の人たちもこのことを一切口にしなかったし、いじめもなくなりました。ただ、後年、村を訪れた時「あん時家出した神戸の子かいな、ほんに大きうなって。」と笑いながら冷やかされたものです。
平成29年1月24日寄稿