戦争体験談「1945年6月7日・北大阪空襲の記憶」
更新日:2021年9月21日
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1945年6月7日・北大阪空襲の記憶
大野 高史
一般に、人間の最初の記憶は4歳に始まると言われている。空襲体験当時、8歳(国民学校2年生)の私の衝撃の記憶を思うと、実体験を伝えることの出来る今、まさに最後の世代・語り部である。この当時の状況を亡くなった母から聞き書きしておいたメモと、私自身の記憶をたどって再現してみたい。
大阪市内で生まれ、終戦前年の1944年(昭和19年)4月、国民学校に入学。年明けすぐに一家は空襲を避けて阪急宝塚線・豊中駅近くの借家に移り住んだ。
3月13日の深夜から14日の早朝にかけての第一次大阪大空襲は、途切れることのない轟音を耳にしながら、南の大阪の方向が夜空を真っ赤に焦がして燃え上がる様子を豊中の疎開先から眺めて、父のいない不安な一夜を過ごした。
4月、私は2年生に進級、兄は4年生、妹はまだ3歳。そして6月7日を迎える(第三次大阪大空襲)。2ヶ月前から始まった沖縄決戦が終結に近づいた6月に入って、もはや夜間爆撃の必要が無くなった米軍は各地に予告ビラをばら撒いた後で、連日「白昼空襲」を開始していた。
ラジオから、北大阪方面の空襲警報が伝えられたのが午前11時ごろ。同時に不気味なサイレンの音が断続的に鳴り響く。町内会の役員が表の通りを、メガホンを使って大声で「空襲警報発令!」、「退避!」と叫んでまわるのが聞こえる。町内のそこかしこに防空壕が掘られていて、いざという場合にそこへ避難することになっていた。
母は貴重品を入れた袋を肩に掛け、私たち兄妹3人に防空頭巾をかぶらせて、妹の手を引いて表へ出ようとしたちょうどその時、突然、戦闘機が1機(P-51ムスタング戦闘機)、こちらへ向かってけたたましいエンジン音を轟かせて、機銃掃射しながら急降下してきた。後で聞くと、すぐ近くを走る阪急電車の線路を狙って銃撃してきたのかもしれない。表玄関から外へ出ようとしていた母は恐怖で立ちすくむ。戦闘機はすぐに機首を立て直し、反転しては何度もバリバリと機銃掃射を繰り返す。
外へ逃げるのはとても無理だと判断した母は、奥の座敷の方へと私たちを連れて行き、空いていた押入れの中へ避難しようとした。4人が狭い押入れの下段に身体を潜り込ませて一息つく間もなく、今度はいよいよB-29による爆撃が始まった。聞き慣れたローピッチのエンジン音に続いて、遠くの方でズシン、ズシンと爆弾の炸裂する音が聞こえてくる。そして爆撃音がこちらの方向へ近づいてきた、と息をつめた瞬間、立て続けに2発、すぐ近くの辺りで炸裂した。耳をつんざく破裂音と全身が浮き上がるような衝撃、家全体が前後左右に激しく揺さぶられる振動。この押入れのある座敷の畳の上一面に、ザーッと音を立てて天井から落ちてくる土砂や屋根瓦、それに息も出来ない真っ白な砂ぼこり。子供心にも恐怖というよりも、「これで死ぬのかな」という思いが一瞬頭の中を走り抜けた記憶がある。
空襲は、実際は10分足らずの時間だったが、とても長く感じられた。ようやく周辺が静かになっても、いつも聞こえてくる「空襲警報解除!」の声が無い。そのうちに、玄関の方から「大丈夫ですかー?」と安否を尋ねる近所の人たちの声がするので、押入れから這い出てみると一面の惨状!爆風で平屋建ての我が家全体に、屋根だけが完全に抜け落ちてしまって、青空と太陽が目に入る。どの部屋も廊下も、一面に抜け落ちた屋根の土砂と瓦の破片で埋まっている。柱だけがほとんどそのまま残っているので、「倒壊」ではない。
家族の無事を喜びながら外へ出てみると、狭い通り一面はガレキの山。近くに直径20m、深さ10mの大きな穴が2つ空いている。まるで、水抜きをしたあとの池のようだ。そして、直撃を受けた家があった辺りでは、砕け散った庭木の破片に、フトンや衣類の切れ端のようなものが何か所にもわたって引っかかっているのが見えた。
生涯消え去ることの無い私の記憶である。
平成29年5月8日寄稿