戦争体験談「戦後77年・ウクライナと重なる」
更新日:2022年8月25日
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戦後77年・ウクライナ戦争と重なる
宮内 宏(83歳)
77年前の昭和20年3月中旬に、私は4月から小学生になる時に、翌日に入院予定の母の大阪南区八幡筋の実家で就寝中の未明でした。
『焼夷弾投下!!』の警防団の声で目覚めましたが既に周辺の家々からは炎や火柱が立ち上り、焼夷弾の燐が燃えながら空一面に星が降り注いでくるのを見ました。
叔父の勤務先の今宮中学(現在の今宮高校)まで徒歩で避難し、炊き出しのおにぎりを戴き一息つきましたが避難途中の道路沿いには動かない多数の人々が倒れていたのを記憶しています。
空襲は西宮でも6月の昼間にあり自宅の大屋根には大きな穴が開き積み上げた畳の上には青い布が燃えていました。
庭には六角形の焼夷弾の筒や、束ねていたスチールベルト、そして焼夷弾をまとめていた重い金属などが多数落ちていましたが、父親が出征後だった為に、親戚や家族で必死に消火したことを思い出します。
2学期から大阪の大阪城近くの小学校に入学し電車通学になりましたが、大阪駅前の広場や曽根崎警察の向かい側に建つ阪神マート(今の阪神百貨店)の電車の乗り場に通じる通路や地下鉄の地下道には戦争で親とはぐれたり、孤児になった子供たちが通路や階段に身を寄せ合って過ごしていたのも痛烈に記憶に残っています。
孤児たちは健気に靴みがきや新聞売りを実践し元気に活動していましたが、収容施設に引き取られるようにもなり、大阪駅周辺からは孤児の姿は消えてゆきました。
大阪駅周辺には戦争で腕や、足を失った傷病復員兵が楽器を奏でて通行人から恵みを受けていました。
電車通学での思い出は、シラミやノミを退治する防疫名目で改札前で、米軍のD.D.T殺虫剤の散布を受けないと電車にも乗れず、頭から体全体が薬で真っ白になる位に撒布を受け屈辱の極みでした。
小学校4年の頃から米軍払い下げの脱脂粉乳の給食が始まり4年の2学期からはコッペパンも配られるようになりましたが食糧難の時でもあり、大変美味しく食べさせて戴いた事も思い出します。
私が最も不思議に感じていた事は、私の父親が兵隊検査は第二歩兵乙で昭和19年10月に38歳で召集を受けて、満州で終戦を迎えてシベリアに送られました。昭和21年3月10日(公報は5月10日)にアムール州の病院で死亡したとソ連からの資料と共に遺骨も帰還しましたが、父親と同年配か若い人々でも戦争にも行かず、召集逃れで毎日帰宅されるのを『何で?』と子供心に不審に思った事が多くありました。
私の父は目も悪く視力も弱いのですが、ソ連の資料には何故か『狙撃兵』と書かれていました。
シベリアでの日本兵捕虜は早く帰国したいばかりに捕虜収容所の仲間を密告で通報し、死亡する捕虜の食糧なども横取りしたと、同じ病院で隣のベッドにいて先に帰国を果たした人から聞いております。
シベリア帰還兵が口を開く事なくシベリアの捕虜収容所内の出来事を墓場まで持って行く人が多かったとも関係者から聞かされました。
戦後の生活は以前に増して厳しく復員帰還兵や帰国市民で食糧事情はさらに厳しいものでした。
焼け跡には住居もトタン板で囲ったバラックが建てられ、焼け残った住宅には家を失った人々と共に暮らす今では考えられない時代もありました。
空襲の焼け跡の瘠せた土地でサツマイモや野菜の栽培もおこない、芋のツルも皮を剥き煮物等でトウモロコシの粉で作ったスイトンと共に空腹を満たす努力をしました。
現代は飽食の時代で食糧はお金で何でも買えますが、戦後には農家を巡って着物などで物々交換で僅かなお米を入手しても帰る汽車で警察に没収されたりする至難の時代でした。
子供たちのおやつにはサトウキビや人工甘味料で味付けされたカルメラなどが大変な御馳走でした。
米軍払い下げ食料品が戦後の日本国民の健康回復に大きく寄与した事を忘れてはいけません。
西宮市中心部でも爆撃の後は廃墟で、ウクライナの映像と重ね合わせて早く終わらせるように努力を期待したいです。
ロシアがウクライナに侵攻した軍事作戦でも、親とはぐれた子供が泣きながらポーランド国境に歩く姿の映像には日本国内で77年前に経験した戦後の日本の国の状況と重なり合って涙腺が緩くなってしまいます。
ウクライナに於いて、路上に放置される遺体にも、大阪空襲で体験した道端の動かない遺体と重なり合うのも事実です。
戦争では何も生まれず、憎しみの増殖と破壊のみで国家は廃れて行くばかりです。
平和の尊さを噛み締めて平和を考えた安全保障を望みたいと思います。
戦後直ぐの国民学校は午前と午後の2部授業で教室もギュウギュウ詰めの状態でした。
戦後77年を経て当時の孤児にも出世された人々も多数存在する事を頼もしく思います。
令和4年8月1日寄稿