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戦争体験談「学童疎開の子」

更新日:2024年5月14日

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学童疎開の子


小野 千代子(90歳)

 

 太平洋戦争が始まったのは、昭和16年12月8日、私が小学校2年生のときでした。戦争が始まってから、私たち小学生の間でも「負けるの『ま』を言っても警察に引っ張られるのよ。」とささやくようになり、言論の自由がなくなりました。
 昭和17年6月。日本はミッドウェー海戦に敗れ、戦況が悪くなってきましたが、情報を伏せ、「勝つまで戦いましょう。」と国民を鼓舞しました。
 13歳から18歳の学生も女子も勉強を止め、軍需工場に動員されました。
 昭和18年からは学徒出陣になりました。そして、食糧不足は深刻になり、米は、配給制になりました。
 昭和19年になると、敵機B29が毎日のように飛来し、空襲警報発令で登校しても、すぐ家に帰って防空壕に入らなければならなくなりました。
 昭和20年3月14日。大阪大空襲があり、東の空が真っ赤に染まりました。そして、4月私たちは、学童疎開に行きました。学童疎開というのは、田舎のお寺の本堂を借りてそこで生活することでした。
 
 私が行ったところは、播但線寺前駅(兵庫県神崎郡)から3里ほど奥にあるお寺でした。6年生女子20名、4年生女子20名、教員2名で集団生活が始まりました。そして、6年生5名、4年生5名で班をつくりました。
 疎開のくらしは、朝は、うすいおかゆをお椀に一杯だけ。お昼は抜き。お腹の前の皮と後ろの皮がひっつく思いをしました。
 それで、班の子10人で野に出かけて行って草を食べました。おいしい草は、イタドリでした。イタドリを見つけるとみんな大喜びでイタドリの茎をしがんで汁を吸うのでした。
 
 ある日の事、イタドリが見つからないので麦畑を横切って向こうの野に行こうとしていたとき、生野銀山の方角の高い空を飛んでいる一機の飛行機をみつけました。「兵隊さんでご苦労さん」と言って手を振りました。その飛行機は、すぐ私たちの所へ降りて来たのですが、飛行機は敵機だったのです。私たちは、麦畑の畦と畦の間のあぜに伏せたのです。敵は機銃掃射でバリバリと40発程撃ちました。弾は私たちが伏せている右側の畦の麦の根元に撃ち込まれました。5月の末日ごろの事で麦は草丈もあり黄色く実っていました。
 敵機が南の方向に去った後、私たちがまだ生きていることを知ったら、あの敵機は、また戻って来て私たちを襲うかもしれないと思った私は「皆、立ってはいけないよ。」と言いました。敵機が見えなくなるまであぜに座っていました。
 
 夕食は、大豆95%お米5%のご飯と味噌汁でした。味噌汁をお椀につぐのは、班長の役と先生が決めたので、私がつぎました。味噌汁の具を少しずつ入れても最後の自分のお椀には具はなくいつも私は汁だけでした。味噌汁以外に副菜は、ありませんでした。
 大豆ご飯の炊き方は、難しいらしくおこげがたくさん出来るのです。そのおこげを10日分餅箱に入れてためているのです。その餅箱は、棚に上げて放置しているので蝿が止まったり埃がかかったりです。そのおこげを給食のおばさんが10日に1回、分けてくれるのです。私たちは、多そうな所に座って手でつかんで食べるのです。
 
 6月初旬ごろ道に捨ててあった芽の出たじゃがいもを拾って食べた子供たちがソラニン中毒で腹痛になり36人が七転八倒の苦しみでもだえました。まるで地獄の有様でした。
 8月15日に戦争が終わって、間もない9月3日、私は腹痛と下痢になりました。
 この症状は、私で3人目でした。それは、消化器系の伝染病でした。母が迎えに来てくれました。
 
 播但線で姫路に着いたのですが、大阪行きの列車は、なかなか来ません。やっと来た列車は、復員した兵隊さんで鈴なりでした。
 この頃の列車は、煙を吐いて走る蒸気機関車でした。やっと神戸に帰ると、町は焼け野原で私の家は、庭石と井戸だけが昔のまま残っていました。ごえもん風呂は、青天井でした。父と母は、防空壕に住んでいました。神戸に帰っても、病院はなく医者もいませんでした。医者は、軍医として徴兵されていたのです。
 
 4年生のYさんの家は、防空壕が爆弾の直撃を受け、お母さんと6人の妹弟たちは死にお父さんと2人きりになりました。
 仲良しだったSさんは、両親を失い、孤児(みなしご)になって自殺しました。
 
 10月になって6年生は登校するよう通知が来ました、行ってみると、校舎内外校庭に落ちている焼夷弾の抜けガラを拾って農園にしていた場所に集める作業でした。焼夷弾の抜けガラは、鉄製の六角柱で長さ1メートルはある重い物で1個運ぶのが精一杯でした。
 作業中、カッと熱気を感じました。不発の焼夷弾が火を吹いたのです。火柱は、3階の校舎の高さまで上がりました。焼夷弾の威力を知りました。火を吹いた焼夷弾の近くに居たN君が火だるまになり先生が上衣を脱いで上衣でたたきましたが消せません。N君は、まっ黒な炭になって死にました。この恐ろしい光景は、今でも忘れられません。
 
 1個の焼夷弾でもこんなに威力があるのに爆弾や焼夷弾がたくさん降って来る空襲は、ほんとうに恐ろしいと思いました。さらに恐ろしい原子爆弾を落とされた広島、長崎の人たちの事を思うと胸がつぶれそうです。もっと早く戦争を止めていたら、たくさんの人が助かったのにと思います。

令和6年5月9日寄稿


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