戦争体験談「終戦後の満州での一体験」
更新日:2021年9月21日
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終戦後の満州での一体験(チャーズ)
前田 晃一
昭和20年8月15日、満州国新京市で終戦を迎えた。当時私は中学一年生だった。翌年から引き揚げが始まったが、父は中華民国政府に留用になり、国立長春大学の教員として学生を教えることになった。
当面は平穏な政情で生活も問題は無かったが、終戦後から国共内戦が勃発し、1947年ごろから、共産党の解放軍が長春市を包囲して農村をおさえ、食糧の市内搬入を禁止したため、食糧が異常な値上がりをし、徐々に市民に影響をあたえるようになった。
街を守っている国民党の中央軍はバリケードで関所(チャーズ)を設置、一方共産党の解放軍も街を包囲するべく、関所を設けて食糧の搬送を完全にシャットアウトした。この両方の関所の緩衝地帯を真空地帯と言っていた。これが長春包囲作戦で、飢え死にした市民は一説によると30万人とも言われ、中国解放戦争史上、長い間隠蔽されていた秘史となっている。当時、日本人は一千人ほど在留していたようである。
1948年、我々日本人は中国人と同様に食糧が無くなり、飢え死にする人が徐々に増えるようになった。私が学んでいた日本人学校は夏には自然消滅してしまった。当然、父の大学も自然閉鎖してしまった。市内の中央軍の食糧は空輸に頼っていて、空から麻袋で投下されるようになり、兵の制止もきかず、住民は破れてこぼれた米を掃き集めた。父らは湖から引き揚げた米の一部を貰うべく軍と契約していた。忘れもしない8月27日、父は湖で狙撃兵に撃たれ、左腕に貫通銃創で軍の病院に入院することになった。このため、最終の脱出組になった原因でもある。食糧難は日ましに厳しくなり、樹の葉・皮は勿論、野草も全て食べつくしてしまった。アオザ・アカザ・タンポポ・鬼アザミなど夙川の雑草を見ると当時を思い出す。そればかりか、靴底・ベルトの皮も食べるような有様であった。街の緑は全く無く、死の街と化していた。
9月30日明け方、私たち長春大学の家族一同130名は団を組んで、食糧は約3日分を準備して脱出を決行した。国民党のチャーズを抜けて真空地帯に入ると、そこは無人の土色の砂漠のような荒地だった。所どころ、土饅頭があって死体が埋められていた。解放軍側のチャーズは閉まったばかりで、いつ解放区に入れるか全く予想がつかなかった。真空地帯には井戸が一つしか無く、貴重な水を汲みに行く途中、グニャッと踏みつけたら、土から骸骨の眼窩が睨んでいた。少しばかりの食糧を我慢して長期にそなえたが、晩秋の満州は寒く、野営は辛かった。毎晩、両陣営の拡声器から宣伝合戦で怒鳴り合っていた。10月10日は国民政府の双十節を祝う意味か、中央軍が機関銃を撃ちながら、我々難民を盾にして進撃を始めたことがある。無差別に飛んでくる銃弾を避けるため、溝に身を隠しながら前進したとき、弟の横にいた子供連れの女性が腹部に流れ弾に当たって亡くなったが、如何ともできなかった。食糧も底をつき野草も無く、枯れて土色になった「オナモミ」の実を炒って、口を血だらけにしながら中身を食べた。長期の野宿と飢えに堪えられず、青年4人が鉄法網を破って解放区に侵入を試みたが、全員射殺されたとのことであった。
入ってから2週間後、突然中共側のチャーズが開かれ、皆遅れじと一団となってゲートを出て、解放区になだれ込んで行った。なんとそこには白菜と大豆畑が広がっていて、農民の制止にもお構いなしに、我々は餓鬼のごとく手当たり次第盗って、無我夢中で口に放り込んだのだった。その時の白菜の芯の美味しかったこと、今食べると青臭い大豆の生もなんと美味しかったか、忘れられない味だった。お百姓さんには悪かったが。
こうして解放区に入った我が家族は、再び父が共産党政府に「新中国建設に協力のため」と言われ、留用になった。1949年10月1日、中華人民共和国成立をハルビンで迎え、瀋陽・撫順を経て、1950年長春に戻り、私は中国の「長春市高級中学校」に入った。1953年、突然思いもしなかった帰国命令が出て、天津から舞鶴港に上陸、10月父が切望していた、故郷「神戸」に帰ることができた。
現中国は満州国を認めておらず、「偽満州」と称している。父たち留用技術者は植民地の贖罪を少しでもしたのではなかろうか?いずれにしても戦争はNO。隣の中国とは仲良くせねばならないと切望している。
平成29年6月23日寄稿