戦争体験談「友よ、壮行の歌を歌おう」
更新日:2021年9月21日
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友よ、壮行の歌を歌おう
前田 昇
あの時代に生きた者は、誰もが異なった戦争体験をもち、その重荷を背負い、あるいは引きずって今を生きている。
昭和18年の春、中学4年生の私は、戦争が拡大する中で、学習より勤労奉仕が日増しに多くなった。週の前半は、軍需工場に通ずる道路の整備や河川敷の埋め立て、後半は校庭で仮想の敵を攻撃する軍事教練が、雨の日も日没まで続けられた。
こんな生活が2年目に入った翌19年、戦争が時を追って激しさをまし、「撃ちてしやまん」や「勝つまでは」など、戦争を賛美し、それをあおる中で、大本営が発表する戦果を疑う事もなく信じていた頃、5年生の約100名が学徒動員令で尼崎の軍需工場に出動を命じられた。比較的身体の頑強な者20名は耐火煉瓦造り、残りは飛行機の風防硝子を研磨する作業に従事させられた。
耐火煉瓦の部門構成は、学徒と徴用工、それに朝鮮半島から強制連行されて来た労働者の混成集団であった。それぞれに作業ノルマが課せられた。上半身裸で足首まである前掛、長い手袋、履物はヤツワリ、年中異様な格好で煉瓦を造る木型に油を流し、大きな四角の木槌で粘土をブロック大に成型、それを乾燥、窯入れ、焼き、窯出しを繰り返した。すべてが人力で危険が伴う作業が続けられた。
窯は直径10m、高さ5m位のドーム型で薄暗く、歩けば砂塵や煤煙が舞いあがった。焼きあがった耐火煉瓦は金属音が出るほどの硬質で、誤って落とせば足の指が飛ぶ危険な作業、職場環境であった。そのこともさることながら、我々が打った耐火煉瓦は、工場の片隅に雨ざらしのまま、うずたかく積みあげられ、放置され続けた。鉱石を溶かして鉄をとる。その溶鉱炉を築く耐火煉瓦造り、戦火が一段と激しさを増す中、現実と憂国の意思との乖離を感じながら、「今」これでよいのか、不信と反発が日増しに高まり、国の為に役立っていると自負出来る働きが出来ないのかが、我々の共通した問いであった。
作業部門の配置転換や労働のありかたを再三工場側に提起するも聞き入れられず、団体交渉も拒否し続けられた。我々は遂にハンストを決断し、運河沿いの煙突の下の広場で職場放棄を決行した。数人は煙突のはしごをよじ登り気勢をあげ、示威運動を強行した。
その日の午後、配属将校が、常日頃憲兵の権力を笠に横暴に振る舞っていた勤労課長を伴って駆けつけ、口癖の「畏れ多くも天皇陛下の御為と」「扇動者は誰だ」と一喝し、煙突から級友を次々と引きずり降ろした。ただ問答無用と罵声を浴びせ、何の改善策も告げず倒れるまで制裁を繰り返した。なす術もなく唇を噛み締め、拳を固めながら屈服しなければならなかった屈辱が今も青春の軌道にほろ苦い残照となって残っている。
19年の夏は殊の外厳しい暑さが続いた。取り分けゆでるような工場の大食堂で支給される昼食は、豆が大半の飯と、玉ねぎの輪切りが1つ2つ浮いている汁で、食事が終わる頃、引率の先生が予科練に入隊する級友の名を告げる日が多くなった。そんな日は誰が言うともなく運河沿いの例の煙突下の広場に集まり、士気を鼓舞する「同期の桜」や「予科練」の唄を歌おうとせず、なぜか哀調を帯びた「誰か故郷を思はざる」が壮行唄となっていた。級友はその歌を後にして学窓を去って行った。
大阪へ向かって出屋敷を過ぎる頃、南側の運河沿いに煙突が見えると、あの下で行動の自由を奪われ、許されることなく連帯責任で共に耐えた級友の顔と、自分の人生に少なからず影響を与えた壮行の歌が重なり、今もあの時の情景がはっきりと甦る。
戦争中の精神は封建制と軍国主義が美化されて聖戦の武器となり、戦後はそれが経済を支えてきた。資源の乏しい小国が世界経済の覇者となった戦後史をみる時、失われた時を求めて歴史が動く中で、自由と言論の尊さはあの時の時代に学び培われたと強く感じている。
平成29年1月26日寄稿