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戦争体験談「満州(奉天)での終戦体験」

更新日:2023年7月21日

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満州(奉天)での終戦体験

 川村 健二(82歳)

 昭和20年(1945年)8月15日、5歳の私は旧満州国奉天市(現 瀋陽市)の日本人居留地にある自宅にいた。翌21年7月に大連近郊のコロ島から引揚船で初めての内地になる佐世保に、その後、無蓋車で母親の里である岐阜に引き揚げて来たので、私の満州生活は僅か6年間で終わった。
 我が家は、祖父が日露戦争時に奉天~ハルピン間の線路を敷設する満鉄の鉄道技師として満州に赴任し、父は奉天で外科病院を開業しており、終戦時には在満40年になる草分けであり、私は満州の日系3世とも言えることになる。満州奥地に居た人達の苦難、親世代の艱難辛苦には比べようもないが、私にも幼いながら色々な体験が断片的な記憶として残っている。
 

 終戦後数日して、奉天にも囚人が主体とされるソ連の兵隊が侵入してきた。大柄で毛むくじゃらの彼らは、略奪・暴行などしたい放題であり、多くの女性は丸坊主になり、ズボンを履き、顔に墨を塗るなどで男装していた。
 我が家にもソ連兵がやって来た。自動小銃を持った3~4名が門をこじ開け、施錠してあった玄関をたたき壊し土足で部屋に入り部屋中を物色、全てのタンスを下から順に開き(上から開くと時間がかかる)、大きな袋に詰め略奪していった。目指すのは、腕時計・貴金属・写真機・衣服などであった。子供の私は、部屋の片隅に数枚重ねた座布団の上に座っており、座布団の間に隠しておいた貴重品は難をのがれることができた。彼らの腕には数個の腕時計が巻かれていた(時計が止まると、ネジを巻くことを知らないので、故障したと思い捨てていたらしい)。
 ソ連兵が撤退してから、ソ連の将校が進駐し、我が家の一室にも将校が暫くの間逗留した。彼らはソ連兵とは比べようもなく温和で街の治安も良くなった。
 ソ連人が撤退した晩秋ころから、治安は再び悪化し、敗戦日本人に仕返しをしようとする中国人の略奪にあうことになった。台所にあった炊きあがったご飯が釜ごと奪われたり、暖房用の石炭も略奪された。冬の奉天は、マイナス10~30度の極寒になる。暖房がないと、寝ている布団の顔の部分は息で凍り、天井にも息が凍り付き昼間に気温があがると溶け落ちてきた。家にあったピアノは、通行人を集めて運び出し持っていかれた。
 私の叔父に関する人情味ある?話もあった。彼は、満州の大学でロシア語を習得し軍隊でロシア語を生かした任務に当たっていた。終戦後、多くの日本人がシベリアに連行され過酷な生活を強いられたが、通訳役としてシベリア行きを上官から打診された彼は、「私は敗戦でロシア語は全て忘れてしまいました」と言いのがれ、上官もロシア語が出来ないなら連れて行く必要はないと言い、シベリア連行をのがれ、日本へ引き揚げてくることができた。
 

 終戦翌年の昭和21年5月頃から内地への引き揚げが始まったが、150万人を超える在留邦人の去就を決めるのは容易ではなかったとされる。日本政府は、国内の窮状に鑑み、「在留日本人の引き揚げは認めず現地にとどめるべし」としていたが、民間人の献身的な努力と必死の訴えを連合軍が認めることとなり、引き揚げが実現することになった。
 我が家も引き揚げることになったが、各自が持つリュックサック1つが全財産となってしまった。引揚時の荷物検査は厳しく、一定額以上の日本円・貴金属などは、日本に帰ってから返還するとのことで没収された。もちろん返還されることはなく、〇〇機関の資金になったとされる。
  
 コロ島から佐世保への引き揚げ船は、船底にすし詰めの状態であり、体調を崩し亡くなった同世代の子供が海の中に水葬されるのも目撃した。
 上陸した佐世保では、暑いなか体中にDDTの粉をまかれ真っ白になり、何回も転びながら抑留所に歩いていった。
 

後日談。
 2017年8月、私は「中国東北部を巡る」8日間のツアーに参加し、旅順・大連・瀋陽・長春・ハルピンを旅した。私にとっては71年振りの満州であり、20名程度の参加者は満州生まれの同年輩者が多かった。
 各地で訪れた博物館には、日本人の蛮行などがかなりのスペースで展示されていたが、レンガ造りの建物自体は満州国時代の物であった。
 奉天の時代に住んでいた瀋陽。記憶が甦ったのは極く一部に留まった。
 長春(元 新京)。霞が関をモデルとして建設された満州国の元官庁街は、街路樹も多く広い道路の両側に大きな建物が整然と配置されており、現在は役所・病院・大学などに転用されていた。
 ハルピンでは、私的にガイドをお願いした。目的は100年以上前に当地で医者をしていた大叔父の足跡を辿ること。ハルピン市街地の地名は満州国時代と同じだったので持参した昔の地図を参考に数か所を巡ることが出来た。大叔父が経営していた医院の建物は、「歴史建物指定(哈爾濱市人民政府公布)」の金属プレートが付けてあり、昔の写真のままの姿で残っていた。その大叔父は、1909年10月26日に伊藤博文がハルピン駅プラットホームで韓国人の安重根にピストルで暗殺された現場におり、伊藤公を抱きかかえ列車内に運び、応急処置を施し、最後の脈を取った医者であった。

 令和5年7月19日寄稿


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