戦争体験談「今あることのしあわせ」
更新日:2021年9月21日
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今あることのしあわせ
菟原 満(83歳)
あの日、あの夜、私も多くの人と一緒に亡くなっていても不思議ではなかった。空襲警報、生と死の境は何だろうと思います。
昭和16年12月8日、小学1年生の私には何のことかわからないまま、国民学校に変わり、どこかの国と戦争を始めたと知らされました。どこかの国で日本の兵隊さんが勝った、勝ったと連日お祭り騒ぎ、大人も子供も、わけもわからずに浮かれていたと思います。
姉と2人で映画館に行くと、ニュース映画、画面いっぱいに日本の国旗がはためいて、日本皇軍が外地で次々と戦果をあげるところばかり、軍神加藤少将とか、エンタツ、アチャコの勝利の日まで等、軍事色の強いものばかりでした。それでも面白く見ていました。個人的には戦争が嫌でも国民全体が戦争意識になっていたので、子供でも軍国少年になっていきます。私は学校の唱歌が好きでした。先生の指名で学級代表で歌うことが度々ありました。その内、唱歌に代わって軍歌も歌うようになり、遠足の行き帰りに愛国行進曲を歌わされました。歌詞の一節を間違えて歌ったことを思い出すと、今でも冷汗が出ます。完全にトラウマとなっています。
現在では禁止されていますが、父親に煙草を買いに行かされました。当時、煙草の値が日増しに高くなって、国民が困っていました。紀元2600年の歌の替歌で、『金シ上って十五銭、ハエアル光三十銭、それより高いホウコクは苦くて辛くて五十銭、ああ一億の金が減る』。こんな歌が流行っていました。忘れてもよいようなことを覚えています。
田舎の親戚のおじさんが姫路の北部連隊に入隊していて、休日に近くの私の家に遊びに来ていました。入隊直後の兵隊さんは隊の規律が厳しいので、夜になると泣いていたそうです。起床ラッパの音は、「起きろよ、起きろよ、早よ起きろ、起きないと隊長さんに叱られる」、消灯ラッパの音は、「新兵さんは可哀相だね、又寝て泣くのかね」と聞こえるらしい。おじさんは、そういう風に教えてくれました。
私の兄が入隊したのは、昭和20年の初めでした。体格が良かったので、山砲に関係していたと思います。同年8月15日、終戦となり、間もなく毛布とゲートルを持って帰ってきました。重い軍靴もありました。兄はゲートルの巻き方を教えてくれました。今でもたぶん巻くことはできると思います。従兄も戦車隊から帰ってきました。
あれから70余年が過ぎて、葉書1枚で戦地に行き、帰る事のできなかった人たち、残された人たちのことを思うと、どんな理由があっても、戦争は絶対にしてはいけません。何の益もありません。目を閉じれば、当時のことがまざまざと浮かんできます。亡くなられた方々に感謝しながら、少しでも皆様のお役に立てるように生きたいと思います。
【あとがき】
本文中の人たちは今はみんな他界しています。
平成30年8月14日寄稿