戦争体験談「消えた卒業式」
更新日:2019年8月23日
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消えた卒業式
三木 幸子(84歳)
まだ雪の残る琵琶湖北西部の疎開地に、大阪市立西天満国民学校長の水川先生からお手紙が届きました。
『戦争で大阪市の学校は閉鎖され、だれもいません。毎年たくさんの卒業生を送りましたが今年は叶えられないのでしょうか。せめて卒業式だけは、六年間学んだこの思い出の学校から卒業生を送り出してあげたいのです。北口先生は三月十三日に六年生をつれて大阪に帰り、それぞれの家庭に帰してあげてください』
という嬉しい内容でした。6年生は大喜び。ずっと会えなかった父や母。妹たちは大きくなったかしらと思いがつのります。毎晩楽しい夢ばかり見て3月13日を待ちました。
学童疎開がはじまり、大阪市の小学校は滋賀県などに指定されました。学童疎開は2通りあります。
1.田舎の安全な地方に親戚のある児童は、そこに預かってその地の小学校に通学する。
2.田舎に親戚のない児童は、学校単位で旅館の一部やお寺の本堂の広間などを借りて、生活の面倒をみる担当の教員と共に共同生活をする。集団疎開といいます。
滋賀県湖北の比叡山麓に、集団疎開したのは、私の母校、西天満国民学校です。担当の北口豊子先生はまだ20歳の新任教師でした。私の学級担任でした。
(学童疎開は3年生から6年生までが対象です。私は縁故先疎開で兵庫県南西部の揖保郡御津村<現たつの市>に1人で疎開しました。)
約束の3月14日の卒業式のため、6年生は13日朝早く、北口先生と出発しました。午後には大阪駅に着きました。お母さんたちが大阪駅まで迎えに来てくれています。
「じゃあ、明日、卒業式で会いましょうね」
出迎えのお母さんと生徒たちを見届けて、北口先生も自宅へ帰りました。
昭和20年3月13日夜、B29爆撃機が300機の集団で大阪方面に攻めて来ました。「大阪大空襲」です。爆弾と焼夷弾で大阪市中心部は破壊されつくしました。大坂市街は一晩中燃えていました。電車も真っ黒焦げです。
夜が明けて、北口先生はいっぱい人が倒れて死んでいる街を歩き続けて、やっと学校に辿り着きました。校舎は鉄筋コンクリートなので、崩れてはいませんでしたが、人は1人もいません。北口先生は静まり返った廊下に向かいました。廊下には死体が7段ぐらいずつ積まれ、ずーっと長い列が続いていました。重なり合った焼け焦げた死体や腕がちぎれた死体など、1人1人確認しながら、昨日別れた生徒たちを探しました。死体の中には大人よりちょっと小さめの死体が混ざっていましたが、見分けがつきません。
北口先生は、卒業証書を胸に抱いたまま、待ち続けましたが、卒業証書をもらいに来た子は1人もいませんでした。夕方になり、夜になりました。それでも待ち続けました。昭和20年3月14日の卒業式は、戦火の中に消えてしまったのです。
沈黙のあと、私の話は静かに終わります。視聴覚教室は悲しみの空気に沈んでいます。私は戦争体験として、「その時、子供たちはどんな暮らしをしていたの」という世代に、私自身が子供であった事もあり、語り部として平和学習の一環に関わってきました。
担当の先生が言います。
「みんな、しっかり聞いていましたね。先生は、このお話は、これで終わってはいけないと思います。心に残ったことを考え合い、話し合いましょう。」
私は無言で何度も何度もうなづいて、生徒たちの瞳を見つめてあげます。
私は学童疎開を3年生で体験しました。毎日の暮らしの様子を絵日記に綴っていました。それを原文のまま1冊の本として自費出版しました。
『B29がせめてきた』3年生の絵日記
私は小学校教諭として22年間勤めましたので、その任地の小学校に「平和学習」の資料に使っていただけたらと思い、寄贈しました。姫路市、たつの市の各校の図書室に。
縁があって、子供たちに、子供の目線で戦争を見つめる機会として、お話に招かれましたが、近隣では芦屋市立朝日ヶ丘小、高浜小があります。
学童疎開年齢は当時、3,4,5,6年生という限られた世代で、現在84歳から87歳という事になります。
この本のはじめに「そかい」という原文を載せました。
『私は七月二十三日に兵庫縣へ、えんこさきそかいで行かなければならない日が近づいて来た。二十四日お父さんといっしょに大阪驛へ急いだ。
-中略-
私は一人でここに来てさびしくてたまりません。これもせんさうをしてゐるためである。日本はけっしてまけません、私はけっしのかくごをきめました。』
優 大へんかんしんです
そのきもちでがんばりませうね。
聖戦を信じ、軍国少年を演じた子供、講評を書かねばならなかった若い教師の心のうちが、私にとって「教育」の揺らぎを感じてしまうのです。
「明日の命があるかと思う?」と質問すると「信じられない!」「あり得ない」と答える児童を前に、私は戦争体験最後の世代として、「消えた卒業式」を語り継ぎたいのです。
令和元年8月7日寄稿