戦争体験談「38度線、決死の脱出劇」
更新日:2021年9月21日
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38度線、決死の脱出劇
宇井 りか(旧姓 湯川)
私の2歳年上の姉の湯川かよは、日本赤十字社和歌山支部病院救護看護婦養成所(現在の和歌山赤十字看護専門学校、和歌山県和歌山市)を卒業後、赤十字病院に勤めていました。姉がいつも赤い十字のマークのついた帽子をかぶっていたことを覚えています。姉と私とは大の仲良しでした。ベルリン・オリンピックの水泳競技を一緒に床の間のラジオで観戦したことがありました。あの「前畑ガンバレ!前畑ガンバレ!」という水泳競技の実況中継も一緒に聴いていました。前畑選手が優勝したときは本当にうれしかったです。私が新宮高等女学校(和歌山県新宮市)に入学したあとも、連絡を交わしていました。
戦争が始まると看護婦は全員、軍に徴用されました。私の父で薬剤師の湯川義成(よししげ)は日本赤十字社の支部長に姉を南方戦線に送らないように頼みました。あとで南方に行った看護婦の多くが米軍に船を沈められて多くの人々が命を落とした、とききました。姉は比較的安全な大陸での勤務となり、朝鮮半島に渡りました。地元の和歌山の新聞が「湯川看護婦が元山(朝鮮半島北東部の都市)の陸軍病院で勤務している」と報じている記事を私は読んだことがあります。姉は婦長だったので、兵士からは「婦長殿」とよばれて敬礼を受ける立場でした。当時の元山の陸軍病院は大きな病院でした。軍医が約10人、看護婦が30人から40人、入院患者も数百人から約1,000人いたといいます。
ところが、昭和20年(1945年)夏の終戦後、朝鮮半島北部はソ連軍が進駐、元山の陸軍病院もソ連軍の支配下に置かれることになりました。ソ連兵が病院の門で自動小銃を構えて立ち、街の広場では毎日のように日本人の有力者を捕まえて銃殺刑が行われるようになりました。姉は日本への帰国を望んでいましたが、陸軍病院は旧日本軍の所属のために、ソ連の管理物として扱われることになり、外出も禁止されていました。満州では70万人もの旧日本軍の将兵(関東軍)が軍隊まるごとソ連に抑留され、シベリアでは強制労働に従事させられました。抑留された人は1日に握り飯1個という食事だったといいます。このままではソ連軍に銃殺されるか、シベリアに送られて抑留されるか、の2つしかありませんでした。
そこで軍医のひとりが船で海から38度線を越えて脱出するという計画を立てました。この計画を知っていたのはその軍医と婦長だった姉の2人だけでした。本当はみんなで逃げなければならなかったと思います。しかし、状況は悪化していくばかりでした。このままでは殺されることは確実でした。
昭和20年(1945年)冬、軍医と姉は何度も脱出計画を練り直しました。昼間は絶対に不可能、ソ連軍に見つかれば必ず殺される、夜でなければ無理だろう。ある日、病院の廊下で姉は軍医から「今晩、出るからな」と告げられました。
その夜、海岸の草原のあるところで軍医と待っていると、船が来ました。船は旧日本軍の陸軍中尉が漁師に変装して漁をするふりをしながら運航していました。漁網を投げるふりをして櫓をこいでいたといいます。その人に「運賃」としてたくさんのお金を出した、とききました。その船底に軍医と2人で潜み、米軍の支配下にある朝鮮半島南部に脱出しました。ほかにも「わたしも乗せてほしい」という女の人がいましたが、赤ん坊を連れていたため、泣いたら見つかる、ということで乗せることはできませんでした。このままでは殺される、絶対に殺される、そんな極限状態でした。どうにもなりませんでした。
日本に帰国後、姉から電話がかかってきたときは本当にびっくりしました。終戦後の混乱の中で、姉の消息は「元山の陸軍病院にいる」ということぐらいしか、わからなかったのです。姉から38度線を越える逃亡劇について聞いたときは本当に驚きました。
その後、姉は地元の本宮町(現在の和歌山県田辺市本宮)で身体の悪い人の家を訪問して世話をしていました。寝ている人を起こして手当をしたり、薬を服用させたりして地元の方々から感謝されていました。姉は30年ほど前に亡くなりましたが、晩年まで人の世話をするのが好きでした。父が姉を南方戦線に送らないように頼んだのは自分勝手なことだと思います。姉と軍医が元山の陸軍病院に他の軍医と看護婦、入院患者を置き去りにして逃げたことはよくないことだと思います。船に乗りたい人を置き去りにしたこともよくないことだと思います。しかし、平和な現代とは違います。生きていくことが難しい非常に過酷な時代でした。戦争という極限状態のなかで誰もが生き延びることに必死でした。この戦争の残酷さを若い方々に知ってほしいと思います。
平成30年7月23日寄稿