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戦争体験談「私の15の春」

更新日:2021年9月21日

ページ番号:64410531

私の15の春


奥山 迪正(87歳)


第十五期甲種飛行予科練 奥山迪正予科練習生の物語

 昭和16年12月8日、真珠湾攻撃のニュースを見て海軍航空隊の大活躍に憧れた中学3年生の私は海軍甲種飛行予科を受験。一次試験は久寿川の北にあった私立西宮商業にて学科を受け、合格。二次試験は愛媛県三津浜にあった松山海軍航空隊にて搭乗員としての適性検査を受け、合格して、昭和19年11月15日付けにて、神奈川県藤沢海軍電測学校に入校し、第三次試験の後、電測学校第212分隊1班に配属と決まった。このとき、全国から3,000名が入った。晴れて第15期甲種飛行予科練習生の若鷲となった。兵舎に戻ると「貴様らのうち一人でも立派な兵隊にして、戦地へ送る責任があるので覚悟せよ」との班長の鋭い言葉と軍人精神注入棒を床にドンと鳴らされ「大変なところへ来た」と感じた。

 翌日から厳しい訓練の日課、まず午前5時45分の総員起し。15分前にはじまり、午後9時の巡検で練習生の一日が終わるのである。午前6時、総員起しで寝具納め、乾布摩擦後、練兵場にて朝礼、号令練習、朝食後は午前、海軍体操陸戦練習手旗信号、モール信号、結索。午後は教科、代数、幾何、電気基礎学や電測関係はもちろん気象、海洋、航海など多岐にわたった。私は電気学校出身だったので電気の方は困らなかったが、困ったのはモールス信号だった。食事のとき竹笛で班長にピーピーと食事が来たことを報告するのも大変でした。

 昭和19年~20年の冬は大変厳しい寒い年で10cmを越える霜柱が立ち、陸戦のときは服は泥だらけ、又雪が60cm積る中、上半身裸で雪合戦をさせられ、声を出して泣くも涙が出なかったことを思い出します。隊長は軍服の上にオーバを着て、長の革靴をはき怒鳴っていた。

 海軍名物の棒倒しは夕方に各分隊150名に分れ対抗試合をする。終わると必ず2,3名は倒れてタンカで連れて行かれる壮絶な戦いである。負ければ夕食抜き。全員バッターでお尻を打たれる。その上食事抜き。15才の食べ盛りの少年には大変苦痛であった。これは攻撃精神を作る為の行動である。練習生の時はバッター、ビンタ、前に支えは常にあった。私は予科練時代33発のバッターを受けた。食事当番のとき班長のめしと汁を反対に置いただけで5発尻をバットでドツかれた。

 12月末頃より空襲がひどくなり、東を向けば、東京の空が真赤になっていた。電測学校も常にグラマンに攻撃され死者も出た。

 5月31日、厳しい訓練と罰の6ヶ月半を卒業し、呉海軍警備隊に配属。藤沢より呉に行く途中の6月2日朝の5時前、皮肉にも芦屋駅に臨時停車する。家に帰りたいが、帰えれば脱走兵として家族は元より、親戚一同罰になるので断念する。

 呉海軍警備隊には400人来たが、成績により300人は電測を離れ砲台の方に、100人が電測につく事になった。80人は行き先が決まったが、私達20人は決まらず、先日TVで放送された呉海軍指令室だった第四ドックの北側にある地下洞の南で、削岩機で毎日昼夜となく掘らされた。

 軍港には戦艦榛名をはじめ、巡洋艦などがいたがグラマンの空襲で大分やられた。呉在中、2回外出が許されたが、夕方より出て、海軍酒保で一杯10銭の酒一合のみ、行き所もなく、すぐに兵舎に帰る。

 7月1日の夜、寝ていたら「空襲」との声と共に爆撃され、兵舎と共に持物を全部なくした。その7月は路上生活。7月とはいえ路上で寝るのは寒かった。雨の日は削岩中の横中にて重なるようにして寝た。疲れているのですぐ寝る。

 8月1日、島根県隠岐島最北端にある電探の勤務に就く。ここは本州も見えず寂しかったが、空襲もなく天国だ。山で薩摩芋を掘ったり、海でサザエを獲ったりして終戦。9月1日付にて海軍二等飛行兵曹になり、9月16日に800円をもらって復員。

 戦後72年、今改めて戦争とはなにか、死とは、そして青春を燃した予科練とは何だったのか。見つめ直し、戦争の実相と命の尊厳を子孫に伝承したい。そして戦争で亡くなった幾多の霊を忘れず今ある平和に感謝しよう。

平成29年7月31日寄稿

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